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2008年9月17日(水)

大切なもの

たった一社の悪行が、ものすごい数の業者に影響が出た事故米騒動。

どんな家庭でも、必ず口にするであろう米。

「ウチの米は大丈夫なのか?」っていう疑問が浮かんでいる人も少なくないのかな?と思います。


そんな報道を話半分で聞きながら、「ウチは大丈夫なのかなぁ?」なんて、何の気なく思ったのです。


数秒後、この業者の事故米が混じる余地が無いことに気づきました。


~我が家の米の流通経路~

祖父の田
 ↓
祖父の家の米蔵
 ↓
祖父の家の籾摺り機・精米機
 ↓
我が家


問題の業者どころか、営利団体を一切通っておりません(笑)。

そりゃぁ、混入も転売ありませんぜ。


祖父の、「1年間働いたんだから、一番美味しいものを食べるべき」という信念により、1番米を頂いております。


「生きている人が一番大切」

コレが、祖父の考えの根底らしいです。

母からの又聞きの話ですが、稲刈りの後に、新米を炊いたんだそうです。

それを、「神棚や仏壇に上げなくていいの?」と聞いたところ、祖父は「生きている人が一番大切。だから、それは後でいい」と返したそうです。

でも、決して粗末に扱っているわけではないのです。
仏壇には毎月僧侶がお経を上げに来るらしいですし、神棚にだって、正月には鏡餅が飾ってあります。

祖父の年齢で、そういう風に言えるっていうのは、スゴイなぁ・・・としか言えません。


実際問題として、自分たちが生きることを犠牲にしてまで信仰をするコトを望んだ宗教っていうのはあるのかな?と思います。

根っこまで辿れば、「信仰することで救われる」っていうのが有名どころの宗教の原則で、「金を払えば信仰になる」ってのは、どっか間違ってる気もしちゃいます。

お布施もしないけど、毎日通って祈ってます。って人を現状の宗教法人は絶対いい顔をしない気がしちゃいます。


まぁ、僧侶も神主も牧師も人間ですから。
霞食べて生きてるわけじゃないですし、食べ物を直接寄付してもらうよりは、お金でもらったほうが自由が利くから、仕方ない部分もあるけどね。


と、そんな感じで本日の日記でした。

信じることで救われる人も居るけど、信じることで落とされる人も居るよね。
じゃ、程よく信じましょうや。何事も。

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