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2008年5月31日(土)

情報の使い方

言葉は、「表現」である。
「表現」は、いろんな力を持っている。

他人を勇気付ける事も出来れば、傷つける事も出来る。

これが、口から発せられた言葉であれば、相手がどういう気持ちで言っているのかというコトは判りやすくなります。

しかし、文字という記号がつむぎだす「言葉」は、半ば無機質で、ニュアンスを伝えるのは、難しい。

インターネットは、基本として「文字媒体」です。

だからこそ、「伝える側」も「受け取る側」もそれを意識しないといけないと思うのです。


それが、「常識」だったら、防げたんじゃないかな?っていう事件が起きたようです。

ブログに「死ね」…高1、遺書に「書き込みされた」

高校一年生が、自ら命を絶ったようです。
遺書には、「ブログに「死ね」と書き込みされた」と書いてあったそうです。

どういうブログだったのか、書き込んだ相手が誰だったのかは明らかにされていませんが、いろんなコトが「悪いベクトル」に転がっていったのかな?って思います。

まず、この高校生に「自分が書いた文章を誰もが見ることが出来る」という意識があったのか。ということ。

自分しか見ない日記のように使っていたのなら、その内容がトラブルを起こす可能性は「無かった」とはいえないと思います。

ちなみに、僕がこのサイトを始めたのが高校1年生のときだったりします。
今となっては、読むのも恥ずかしい文章なんですが、「まったく知らない誰かが読む可能性がある」っていうのは、気を使っていたつもりだった記憶があります。


続いて、コメントを書いた側の話。
自殺を思うほどだった…という事を考えると、おそらく「面識のある友人」が「記事の内容に対してリンクする」コメントだったのだろうと思います。

「死ね」という言葉の重さを判っているのかな?という部分も。
「バカじゃないの?」と笑み交じりで言うような言葉の代わりに使い、そのまま歳を重ねた…っていうのも少なくないよなぁ…と思う部分も。

小学校とか中学校の時に、何かにつけて「死ね」と捨てゼリフに使っていた人たちも居たような気もします。

それの善悪や、言葉の重さを考えないまま育っちゃうと、軽く「死ね」と使っちゃうのかな?と思います。

僕は、「軽い嫌悪感」ぐらいだったんですが、祖母が他界したのがきっかけで、「誰かに向けて使える言葉じゃない」と思ったもんです。
ちなみに、中学3年生の時でした。


それぞれが、ちょっとずつ相手のことを考えたり、ちょっと気を回せば、こんなことは避けられたんじゃないかな?と思います。

ネット世代の情報リテラシーを、誰かが教えなきゃいけないのかな?と思うのです。

「大人になれば自然に身につく」のを期待することは、そう簡単じゃなくなったと思います。

子どものインターネット禁止論も出てますが、「大人になれば自然に身につく」を期待するよりも成長は無いので、はっきり言って論外。

「大人になれば自然に身につく」は、経験の上に成り立つもの。
それから「経験」を引けば、何も残りません。


教科書じゃなくていいんだ。
「ネットをするなら覚えておいて欲しいこと」って言うような、小冊子を学校で配ったり出来ないのかな?と思います。

某大手車メーカーが交通安全教室をやったりしてるんだから、PCメーカーやプロバイダとかがやってもいいと思うんですよ。

贅沢を言えば、「子ども向け冊子」と「親向け冊子」を配って欲しい。
インターネットが一般化したのもここ数年の話だから、よく判らない親御さんも少なくないでしょう。
そこに配慮すれば、「なんか良くわからないけど、危険らしいから禁止にすればいい」なんて言う人も居なくなるでしょう。

アピール度の高いハデな行動よりも、草の根活動のような物が必要だと思うのです。
逆に言えば、「全面禁止」とか、「フィルタリング」というような、アピール度の高いものでは、根本解決には繋がらないと思います。

「危険を回避する」能力を養うために必要なのは、「禁止」ではなく、「経験と知識」。
「禁止」は「経験」を奪い、知識を手に入れる手段を遠ざけること。


それを選択していいの?

禁止による「利点」は、僕は見出せません。
悲劇をくり返させないためにも、認識や意識のそこを上げる必要があるんじゃないかな?と思います。


そんな感じで、本日の日記でした。

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